韓国における脱北者:問題と展望

ロシア科学アカデミー極東研究所論文集、2001年

 最近の朝鮮史の興味深い現象の1つとなったのは、国を離れ、ともかく韓国まで 辿り着くことができ、庇護を受けている元北朝鮮市民の数の増大である。その結果、大韓民国において、現在約1,500人を数え、非常に急増している脱北者の小さな共同体が形成された。南に来た北朝鮮人の運命、並びに大韓民国の当局及び住民側からの彼らへの態度に、本論文は充てられた。ここでは、「脱北者問題」、韓国法令の変化及び脱北者業務の実践の経緯と韓国社会での北朝鮮人の現状が研究される。

 論文は、主として、韓国プレスの出版物に基づく。比較的少数にも拘らず、大韓民国まで辿り着いた北朝鮮人は、現地プレスの少なからない注意を引き付けている。かつて(1990年頃まで)、この関心の主な動機は、プロパガンダと明確に関連していたが、最近、全く別の問題が韓国のジャーナリストと学者を心配させている。南に来た北朝鮮市民の運命は、南北間の人々の移動が今よりも集中的になる将来、展開される公算が大きいプロセスのある種の指標として受けとめられている。

 新聞掲載物の外、論文作成の際、著者は、個人的に知る多くの脱北者との会見及び対話からの個人的印象にも頼った。

 韓国統一部のデータによれば、1953年から2001年1月1日までの期間に渡って、大韓民国領土には、何らかの方法で、1,406人の北朝鮮人が渡った。その内、現在までに186人が死去し、33人が、第三国(主として、米国)に常住したため、2001年初め、韓国には、1,187人の脱北者が居住していた(表1.参照)。この統計は、恐らく、完全ではない。つまり、北朝鮮特務機関職員が南側に渡り、そこで庇護を得たが、これらの越境は、分かりきった理由により、公表されなかったものと予想できる。類似の理由により、北朝鮮の高級官僚又は軍人の越南のその他若干の事例も秘密とされたことが排除できない。最終的に、知る限りでは、若干の脱北者は、越境を秘密にしておくことを要求し、通常、そのような要請は、当局により考慮されている。このようにして、南にいる元北朝鮮人の実数は、見たところ、1,406人という公認の数字を若干超え得るが、現実と公式データ間の差異は、余り大きくないだろう。

表1.韓国に到着した脱北者の数

1970 1970-1979 1980-1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000
485 59 63 9 9 8 8 52 41 56 85 71 148 312

統一部の公式ウェブ・サイトのデータによる(www.unikorea.go.kr

 何れにせよ、1,187人の脱北者は、人口4,700万の韓国の取るに足らない小さな部分である。実際、この非常に小さな人々の集団の問題への関心は、脱北者が「別の朝鮮」の代表者であり、韓国社会への彼らの適応問題は、難民の細い流れが何千人もの流れに変わった場合、元「南人」と元「北人」が1つの国家で暮らし、1つの経済で働き始める 統一の場合はなおさら、韓国がいかなる困難に直面するかを予想するのを助ける公算が大きいことによって引き起こされている。

 とにかく大韓民国に渡った北朝鮮住民の表記に対して、韓国では、3つの異なる用語が使用されており、その各々は、 独自のニュアンス(あるいは、「政治的意味」)を有する。その中で最初の、最も流布した用語、「脱北者」は、「脱(する)」、「北(を)」、「者」の3つの漢字から成る。このようにして、これを「北朝鮮を脱した者」と訳すことができる。このカテゴリーには、韓国にいない者、例えば、中国の北朝鮮難民も含めて、北朝鮮からの全移民が入る。2つ目の用語、「越南者」は、少し稀にしか使用されない。これは、「越(える)」、「南(へ)」、「者」を意味する漢字から成るため、「南に越えて来た者」と訳すことができる。3つ目の用語、「帰順者」は、「帰(る)」 、「(法律/合法権力に)順(じる)」、「者」の漢字から成り、「合法権力への服従に戻った者」と訳し得る。この用語は、南部だけではなく、朝鮮半島全土における唯一の合法政権の役割に対するソウルの歴史的に重要な要求を反映している。ソウルの視点から、北朝鮮は、「自称」国家で、その全住民は、定義上、大韓民国市民である(平壌では、鏡のように反対の視点が堅持されている。)。

 最初の2つの用語(「脱北者」と「越南者」)は、中立的であると同時に、「帰順者」は、明らかなイデオロギー的色彩を有しており、南の住民の大部分には、今、軍事政権時代の凄まじい反共プロパガンダが連想されている。現在、「帰順者」は、特にその余計なイデオロギー化とこれにより引き起こされる連想のため、徐々に使われなくなっているようである。本論文においては、北朝鮮からの移住者を「脱北者」と呼ぶことにする。この言葉は、しかるべき韓国の用語が中立的であるか、半公式的であるため使用される。

 脱北者は、以前から、その歴史の初期から韓国に現れた。38度線を越えた移動は、国の分断後最初の数ヶ月間に始まった。これは、二面的だった。本論文においては、北から南への移動についてのみ話すが、一定期間 集中度に関して全く比較できた反対の流れの存在についても忘れるべきではない。解放後最初の数年間、38度線は、一定の通行性を維持した。ソビエトも、アメリカの軍政当局も、国境を越えた移動を停止させようと試みたが、1950年まで、結局、これを完全に得ることができなかった。このための戦力も、手段も、現地状況の知識もなかった。他方、土地改革、産業の国有化、非共産政党及びキリスト教組織の破壊等、1945〜1950年に北朝鮮で行われた改革は、不可避的に多数の不平者を生み出し、大量にもう1つの国に去った。1950〜1953年の朝鮮戦争も、大量移住をもたらした。数十万人の朝鮮人が、様々な事情のため、自分の故郷を離れ、その多くにとって、1953年以降、進入不可能となった。軍事分界線は、有刺鉄線と地雷原により、国を分断し、何十年間も、南北間のいかなる接触も不可能にした。戦争(特に、その最初の混乱期)が、それでなくても特に非効率的な南の国家機構を麻痺させた以上、北朝鮮の道からここに来た難民の数の正確な評価はないが、数十万人であることは明らかである。

 このようにして、1945〜1951年、移住は、かなり大規模な性格を帯びたが、1953年以降、南北間の境界は、しっかりと閉ざされた。1960年代末までに、北朝鮮政府は、「外向き」(韓国のエージェントの国内侵入に対して)にも、「内向き」(北朝鮮を離れる無許可の試みに対して)にも向けられた極めて効果的な国境警備システムを創設した。数kmの地雷原、検問地帯、鉄条網は、軍事分界線の横断を格別に危険な行為、事実上、ほぼ保証された自殺に変えた。海路による越南も、時と共に簡単ではなくなった。北朝鮮において、海岸への進入は、一般市民に対して閉鎖され、海岸自体は、海に沿って数百km延びた数列の有刺鉄線と検問地帯で隔離されている。海岸への進入は、綿密に警備された若干の区域でのみ許可された。漁師は、海への比較的自由なアクセスを有するが、特にそれ故、当局の特に注意深い監視下に置かれている。加えて、1957〜1960年以降、北朝鮮当局は、「内閣決定第149号」に従い行動しつつ、沿国境地帯(38度線から20km以内の距離)からの社会的危険分子の退去を行った。1953年以降の移動に対する統制も、逃亡防止に寄与した。自分の郡外への移動に対して、北朝鮮人は、内務機関から特別許可を得なければならなかった。総じて、住民に対する統制システムは、非常に有効に働いたが、脱北者の少数性は、別の事情、先ず第1に、1965〜1970年まで、韓国が生活水準に関して北を決して越えていなかったことによっても引き起こされた。効果的なプロパガンダも、少なからない役割を演じた。60年代と70年代、革命の熱意はまだ新鮮で、北朝鮮住民の主力は、既存の体制を支持していた。それ故、脱北者は少なかった。

 ソウル当局が全力でその数を増やそうとしたのは理解できる。敵国に不和をもたらし、諜報情報を得る期待の外、ソウルでは、内政上の理由によっても指導された。当時、当局は、国内の反共プロパガンダについて真剣に考えざるを得ず、脱北者は、この「思想・教育業務」において広く利用された。彼らが書いた(そして、政府のイデオロギーにより編集された)北朝鮮の共産主義の惨禍に関する本が大量に出版され、脱北者自身は、教育施設及び企業での反共暴露講義に定期的に出席しなければならなかった。事実上、これらの行為は、大部分の脱北者にとってその主な仕事であることに加えて、公的プロパガンダ官庁の資金から悪くない給料が支払われた。脱北者の存在自体が、南の社会・経済的優越の生きた証拠となるはずだった。このシステムは、韓国で反共主義プロパガンダに従事していた施設の全機構が政府の助成金を失い、間もなく、その存在を停止した1990年代初めまで保持された。

 1960〜1990年、脱北者の圧倒的多数は、北朝鮮エリート出身者だった。これは理解もされる。少数の特権グループ代表のみが、当時、北朝鮮を離れる物理的能力を有した。当時の脱北者中には、自分の飛行機を乗り逃げした軍の飛行士、第三国を経由して越南した外交官及び対外貿易組織職員、軍事分界線に沿って位置するため、それがいかに警備されているか知っている部隊の軍人、並びに多数の監督者と監視者の警戒を欺くことができた漁師がいる。

 そのような条件下において、脱北者が当局側から気前の良い援助を当てにできたことは驚くべきことではない。1962年、朴正煕軍事政権の権力掌握後間もなく、韓国において、脱北者への態度を規定する最初の法令、「脱北者の保護に関する特別法」(法律第1053号)が採択された。1978年、議会は、小修正と共に1993年まで有効だった新しい「脱北者保護法」(法律第3156号) を採択した。両法は、脱北者援助に向けられた非常に様々な措置を規定した。越南後、脱北者は、5つのカテゴリーの1つにより、終身金銭手当を受け取った。脱北者の何らかのカテゴリーへの所属は、新しい祖国に対するその貢献により決定された。言い換えれば、その提供する諜報情報の重要性とそのプロパガンダ的価値に依存した。この外、特に価値ある情報又は戦闘機材をソウルの管轄下にもたらした脱北者には、非常に大金であり得る追加の報奨金が支払われた。例えば、1983年に自分のMiG-19を 乗り逃げした李ウンピョンは、1億2千万ウォンの報奨金を受け取った。当時の基準で、これは、平均月給の8千倍(!)という天文学的な額だった。それにも拘らず、そのような褒賞なしでも、普通の脱北者が定期的に得る給与は、何不自由のない生活に全く足りた。国家は、彼らにソウルの悪くないアパートを保障して、無償で提供し、並びに希望者がその選択によりどの大学にも入れるように助けた(権威ある大学の卒業証書が事実上人生の成功を保証する韓国の条件下では、少なからず重要な特権)。軍人は、希望により、韓国軍で勤務を続けることができた上に、その北朝鮮の階級が維持された。最後に、南への到着後しばらくの間、脱北者には個人警護も定められた。実際、脱北者には、制限、特に、出国に対するほぼ完全な禁止も課せられていた(それにも拘らず、一般の韓国市民に対しても、1988年まで出国は顕著に制限されていた。)。

 状況は、社会主義システムの破綻とソ連崩壊後、90年代初めに急変した。一方で、共産主義イデオロギーは、ソウルにとって重大な危険ではなくなり、北は、たとえ少なからない軍事的潜在力を保持したとしても、ますます「張子の虎」と思われた。他方、脱北者の流れは、その政治的必要性が消えていないにしろ、急激に低下したちょうどその時に増大し始めた。脱北者の「社会成分」も低下した。北朝鮮エリート代表の外、その中には、その情報及びプロパガンダ的価値が大きくない庶民出身者がますます多くなった。これらの変化は、プロパガンダの効果の低下、経済的困難の激化、住民に対する統制の弱化等、北朝鮮で起こったプロセスを反映した。少なからない但し書き付だが、脱北者の道への積み換え基地に変わった中国の改革も、少なからない役割を演じた。最近の脱北者の圧倒的多数は、2段階で韓国に辿り着いている。当初、彼らは、警備弱体な中国との国境を横断し、暫くの間、満州の現地朝鮮人中に隠れ、その後、何らかの方法で大韓民国に辿り着く(見ての通り、旅の最終段階は、少なからない困難が伴い、少数の者が可能である。)。

 変化の最初の徴候となったのは、ロシア極東領域で働いていた伐採夫の韓国到着だった。何人かの伐採夫が、キャンプから脱走することができ、何らかの方法で韓国まで辿り着き、1994〜1995年、全脱北者の3分の1以上を構成した。その先駆者と異なり、これらの人々は、教育が優れず、価値ある諜報情報を当局に提供することができなかった。早期に、特にそのような人々が、脱北者中で優勢になり始めた。

 統計に完全にはアクセスできないが、脱北者の構成における重大な変化は、2000年10月に議会の照会により首相府により準備され、1996〜2000年に南に着た北朝鮮人の 構成を検討した参考資料から明らかである。その中では、女性が多く、ほぼ1/3、34.3%を構成している。その社会的出自に関して、「新」脱北者の46.3%は、労働者と農民、言い換えれば、高等教育(しばしば、完全な中等教育すらも)を有していない人々である。脱北者の更に34.1%は、就学生(主として、生徒)と「定職を有さない者」(主として、主婦)だった。党員及び教師を含む全種類の事務職は、脱北者の9.1%しか構成していない。1996〜2000年の脱北者の更に6.7%は、北朝鮮の外交官と駐外施設職員、3.6%は軍人だった。このようにして、最近の脱北者中において、エリート又は北朝鮮社会の中流層代表と考えられる者の割合は、辛うじて15〜20%に達する。1995年以降に大韓民国に着た元北朝鮮住民の圧倒的多数は、北朝鮮下層出身者だった。

 変化した条件下において、ソウルは、脱北者に従来の特権を提供する能力も、重要なのは必要性も見ず、1962/1979年の法律は、根本的に再検討された。新しい法律第4568号(1993年6月)と1997年7月に採択されたその修正版の法律第5259号は、脱北者への援助の急激な削減を規定している。特に、個人警護システムが廃止され、住宅の提供が中止され、教育及び医療保障領域の特権が削減された。金銭手当の額も急減された。一般脱北者が何も特別なことを行わずに、完全に保障された生活を行えた時代は、 過去のものとなった。1993/1997年の法律に従い、脱北者は、韓国到着により、3種類の支払の権利を有する。第1に、国家は、総面積7〜10坪(25〜35平方m、今の韓国基準で、極めて控えめな住居) の住居の賃貸に対して、保証金(保証金のみで、家賃自体ではない!)の支払いを受け持つ。第2に、彼らには、最低月給の30から100倍の額の一時手当が支払われる。手当の額は、以前と同様に、脱北者の情報及びプロパガンダ的価値に依存し、2000〜2001年、1人当たり平均2千万ウォン(1万5千ドル)に達した。この額は、今、平均年収にほぼ一致し、巧みなアプローチの下では、新生活への若干の助けとなり得るが、日々の糧を稼ぐ必要性から人を解放していない。第3に、以前と同様に、特に価値ある脱北者には、特別報奨金が定められている。これは、非常に著しいものであり得る。つまり、1996年に自分のMiG-19をソウルに乗り逃げした北朝鮮空軍大尉李哲秀は、4億2千万ウォンの報奨金を受け取った(当時のレートで、50万ドル超)。元朝鮮労働党中央委員会書記黄長Yは、脱北後、顕著に少ないが、それでも著しい額である2億5千万ウォンを受け取った。しかしながら、これらの数字は、余り典型的なものではない。脱北者の95%は、一般にいかなる特別報奨金も受け取っておらず、1回限りの手当と住宅の援助に限定されている。

 北朝鮮難民に対するソウルの政策の急変の裏付けとなったのは、最近中国北東部で形成された状況である。北朝鮮における破滅的な水害が凶作を引き起こし、大規模な飢餓が引き続いた1995年以降、多数の北朝鮮人が中国領土に渡った(中朝国境が38度線と違って警備が弱体なおかげで)。プレスにおけるその数の評価は、非常に異なり、これは、統計の不在とも、その数の常時変動とも関係するが、この数が数万人に達することは明らかである。知られている最も真剣な研究のデータによれば、難民数は、1999年春、14万3千人(最低評価)から19万5千人(最大評価)に達した。多数の難民は、満州に集中し、日雇い仕事で生活費を稼いでいる。

 一見したところでは、多くの難民にとって問題の最も論理的な解決は、韓国への移住のはずである。しかしながら、そのような事例は、唯一的、排他的性格を帯びる。このことは、一連の原因により引き起こされており、その内、最も重要なのは(しかし、唯一ではない)、韓国自身が難民を自国民と認めることを公然と望んでいないことである。難民が中国に不法滞在している以上、彼らは、しかるべく手続された文書を持って、公式ルートで韓国に出国することができない。難民が韓国大使館又は領事館とどうにか接触を確立できた場合、そこで、決して抱擁の手を広げられず、通常、援助を断固として拒否される。そのような慎重な立場が多くの場合、第1に、朝鮮内部の紛争における自国の中立を入念に守り、第2に、南に殺到する難民の 雑然かつ危険な人波の乗り換え地点に変えるつもりのない中国との関係において、問題を回避する希望により引き起こされていることが分かる。しかしながら、ソウルの消極性には、別のより重要な原因もある。その大部分が余り教育されていない農民である難民は、韓国社会に上手く同化できるチャンスがほとんどないことが明らかである。韓国に来た彼らは、社会問題の追加の源泉となり、少なからない支出が要求される公算が大きい。その外、最近、南は、北に対する完全かつ最終的な勝利、従って、その不安定化をもはや希求しておらず、ソウルは、現状維持をより好んでいる。それ故、中国から韓国に渡ろうと試みる難民は、駐中国大韓民国公式代表からの支援を見出していない。このことは、時折脱北者が中国を経由して辿り着く東南アジア諸国にもある程度関係し、多くの場合、タイ又はビルマ経由が最も確実で、駐バンコク大使館は、脱北者に援助を提供している。

 例外は、諜報・情報又はプロパガンダ的価値を有する少数の難民である。元高位軍人、脱走した特務機関職員又は党員は、彼らを中国から出国させ、ソウルに送り届ける方法を見つける韓国代表部機構側からの支援を当てにできる。何らかの方法で韓国の自分の親戚と 連絡を取り、出国の組織における必要な援助を得られた難民も、ソウルに入るのは容易だが、そのような幸運者は少ない。最後に、若干の者は、中国船で韓国まで単に不法入国し(中国の国境検問の厳格さを考慮すれば、簡単な課題ではない。)、そこで当局に投降している。そのような状況に直面した韓国当局は、望むが望まないが、その領内に入った脱北者を独自に受け入れている。一定の特恵を享受するもう1つのグループは、その意思によらずに北に入った元南の住民、主として、朝鮮戦争時の軍人又は北朝鮮の哨戒艦により拿捕された漁師である。韓国のプレス上では、1953年 の休戦署名後に北朝鮮から返還されなかった元韓国軍将兵の定期的な越南が広く報道されている。それにも拘らず、ここですら、例外が起こる。1970年4月にその船が北朝鮮海軍により拿捕された元韓国漁師李チェグンの経緯を言及することができる。李は、かつて、北朝鮮に留まることを自発的に同意したが、結局、地方に追放され、25年間、咸鏡南道の工場で働いた。1998年、彼は、中国に逃亡したが、宗教組織の活発な支援にも拘らず、彼は、ソウルの入国許可を丸2年間待たなければならなかった。

 勿論、難民に対するそのような自制は、特に吹聴されていない。逆に、時折、ソウルでは、中国に滞在する北朝鮮難民への援助の希望が宣言されている。つまり、1999年10月、当時の統一部長官林東源は、韓国議会に出席し、韓国が北からの「全」難民を受け入れる用意があると厳かに宣言した。しかしながら、当の統一部の官僚は、長官がその表明で、「韓国在外代表部で必要な全ての移民手続を経た難民」を言おうとしていたと説明を急いだ。いかなる国外パスポートも有してない(しばしば、一般にいかなる文書も)中国からの脱北者は、「必要な移民手続」を決して行えないため、そのような「説明」が表明自体を事実上抹消したことが理解される。

 それにも拘らず、脱北者の流れは、急成長し続けている。1998年、71人の元北朝鮮住民が、1999年には148人、2000年には312人 が越南した。これは、韓国紙が過去1〜2年間、普通の脱北者についてもはや報道していない位、普通の現象となった。プレスの何らかの注意は、今、同時に10〜15人の元北朝鮮住民が南に来る集団逃亡か、北で比較的高い地位を占めていたか又は何かでより注目に値する人々の逃亡に引き付けられている。いかなる逃亡もセンセーショナルであった時代は昔に過ぎ去り、普通の脱北者に関する情報は、今や、国家情報院の短いリリースにおいてのみ見つけることができる。

 韓国到着により、脱北者は、韓国の「関係機関」、先ず第1に、国家情報院(旧KCIA)と統一部の管轄下に入る。数週間又は数ヶ月間、彼らは尋問され、潜在的に有益な全ての情報を搾り出すことが試みられる。この期間、脱北者は、外界から完全に隔離され、事実上、拘禁下にあるが、快適でもある。

 「関係機関」での尋問終了後、一般の脱北者は、その目的が韓国での生活の準備である特別課程に送られる。1999年8月から、脱北者のために特別に創設された教育センターが、ソウル南方ほぼ70kmの地方都市、安山で活動している(センターは、「ハナ院」 の名で知られる。)。センターのプログラムは、3ヶ月の予定で、520教育時間を含み、そのほぼ半分(268時間)は、韓国文化の特性の研究に割かれる。残りの時間は、コンピュータ素養の基礎、速成運転課程、韓国式料理の基礎 (ソウルの商品棚で見つかる食品の大部分は、北朝鮮人が知らない。)等、実習が占める。2001年3月初め現在、安山の課程は、248人、又は韓国に存在する全脱北者のほぼ4分の1が卒業した。「ハナ院」での講義は、定員の講師、並びに特別に招請されたソウルの大学の教授が行う。しかしながら、多数のセンター卒業生が認めるところによれば、そこでの教育効果は、最良を期待させない。講師は、聴講生の特徴的な語彙にも、余り高くない文化水準にも適応することができない。元センター卒業生が2001年春に「週刊朝鮮」 誌記者との対談で指摘したところによれば、「有名な教授が我々に何かの講義を行ったが、率直に言って、全く何も理解できなかった」。それにも拘らず、卒業生は、コンピュータ素養の基礎(30時間)と、稀に運転の基礎に関する授業を感謝して受け入れている。センターでしばしば起こる就学生の喧嘩、並びに行政職員に対する暴力及び野蛮行為が悪名高い。一般に、センターで働いている者は、かなり一致して、紛争の場合、脱北者が簡単に身体的暴力に訴えることを指摘しており、平和的な韓国人を驚かせている(それにも拘らず、韓国人とも、北朝鮮人とも働いたことがある著者には、驚きを引き起こさない事情)。

 課程終了後、脱北者は、定められた一時手当を受け取り、当初当局が決定する新しい居住地に発つ。最近、北朝鮮人は、首都から少し離れた地方に分散させられており、ソウルで暮らすことを当てにしていた脱北者自身には、しばしば、少なからない不満を引き起こしている。何れにせよ、この時点から、元北朝鮮市民は、自分自身に任され、多くの者にとって完全な苦労と失望となる新生活が始まる。

 1996年2月に起こった事件は、南に来た北朝鮮人の問題に、より大きな注意を引き付けた。その主人公となったのは、1993年10月に北朝鮮から中国に逃亡した金ヒョンドクである。予期されたように、若き(20歳にもなっていなかった。)脱北候補者への協力を断固として拒否した駐北京韓国大使館での対話後、金ヒョンドクは、ベトナムに向かい、1994年9月、香港を経由して、どうにかソウルまで辿り着いた。そこでの彼の生活は、余り上手くいかなかった。1回限りの手当として割り当てられた金は、ソウルのごく小さな部屋にしか足らず、定職を全く見つけられなかった。1996年2月、「新生活」に完全に失望した金ヒョンドクは、自分の年上の友人と一緒に、今度は韓国からの逃亡を試みたが、逮捕され、暫くの間、収監された。この事件は、韓国プレスの広い注意を引き付けた。恐らく、これは、その数が当時正に急成長し始めた脱北者の文化的順応問題 について真剣に考えさせる最初のきっかけであった。2001年、自分の逃亡失敗について熟考しつつ、その時までに大学を卒業し、議会事務局職員になっていた金ヒョンドクは、「失望が大きかった。先ず第1に、人が金だけで評価する社会の雰囲気に耐えるのが難しかった」と語った。別のインタビューで、成長した(28歳)金ヒョンドクは、「私は、もはやどこにも去らないだろう。ユートピアはどこにもない」と指摘した。この明らかな事実の自覚は、大部分の脱北者にとって非常に病的である。

 稀な一致をもって、脱北者自身も、彼らと働く専門家も、1つの興味深い法則を指摘している。北朝鮮で閉めた社会的地位が高ければ高いほど、通常、南で成功するチャンスが大きい。北朝鮮の元外交官、官僚、将校は、通常、韓国社会の現実に適応し、そこで悪くない地位を占めることができた。他方、元伐採夫、農民又は漁師は、韓国でも、社会の階段の最下段にいる。通常、彼らは、教育を受けられず(普通、これを行おうともしない。)、彼らの新しい条件への順応は、大きな困難を伴う。脱北者のほぼ全ての成功事例は、特に北朝鮮エリート出身者と関連している。平壌のエリート・レストラン「青龍館」(地位に関して、ソビエト時代のモスクワの「メトロポーリャ」のようなもの)の元コック、李チョングクは、韓国に7店舗のレストランを創設した。北朝鮮の主要ダンス・グループ「万寿台」 の元ダンサー、シン・ヨンヒは、南で、テレビ・シリーズでの若干の成功と共に、女優となった。彼女の夫、朝鮮労働党中央委員会会計課主任の息子、崔セヨンは、通貨取引に従事する自分の会社を指導している。元社会安全部(北朝鮮の警察)大尉ヨ・マンチョルですら、ソウルに小さなレストランを開くことができた(一般に、公共外食制度は、何らかの理由により、脱北者中で特別な人気を得ており、その多くは、このビジネスに従事する。)。エリート代表から成る成功した脱北者のリストは、更に続けることができる。数人の者は、北問題に従事する研究センターに就職できたが、総じて、給料は悪くなく、仕事には、教育を受けた脱北者だけが入れる。例えば、在北時、アメリカ帝国主義者とその傀儡の抑圧 に対する南朝鮮人民の苦痛に関する放送劇を専門としたチャン・ヘソンは、今、統一政策研究所で働き、今や北朝鮮テーマに切り替えて、自分の著作活動を続けている。多くの北朝鮮軍人は、韓国軍、主として、諜報又は特殊プロパガンダ機関で勤務を続けた。例えば、1983年に自分のMiG-19をソウルに乗り逃げした前記の戦闘機パイロット、李ウンピョンは、大佐、軍事アカデミーの教官となった。

 元北朝鮮学生の大部分は、特恵的大学入学の権利を利用し、その卒業後、比較的悪くなく落ち着いた。つまり、最近、「月刊朝鮮」誌は、1989〜1990年にソ連及び東欧諸国で学び、そこから韓国に渡った11人の北朝鮮学生の運命を追跡した。南での生活の10年後、彼らはどうなったのか?彼らの中には、今、2人のレストランの社長、レストラン・ネットワークの所有者、LG社社員、作家、歯科医及び2人の企業家・プログラマー(主としてアメリカ市場で活動する成功した会社を一緒に管理している。)がいる。11人の内、3人は、韓国外に常住している。2人は、CISで自動車を取引し、1人は、ポーランドに会社を所有している。もう1人も(ソウルのロシア人居住区で良く知られている有能なプログラマーかつ企業家、金チイル)、事実上、アメリカに常住しており、韓国にはたまにしか来ない。

 しかしながら、これら全ての事例は、北朝鮮の政治及びインテリ・エリート代表にのみ関係し、脱北者全体におけるその割合は、今や、大きくなく、既に語ったように、低下している。大部分の脱北者は、決して物質的に成功しておらず、逆に、その大部分は、貧乏暮らししている。韓国社会学者のデータによれば、2000年、調査された924人の脱北者の内、55.8%(過半数!)が無職だったが、同国では、失業率は4%でしかない!16.5%が会社に雇用され、9.1%が独立の企業家であり、1.7%が科学研究センター及び大学で働いていた。残りは、年齢又は健康状態により労働能力がなかった。脱北者の収入が余り高くないのは驚くべきことではない。2001年初め、彼らの平均月給は、1世帯当たり96万ウォン(770$)に達した。比較として、国家統計院のデータによれば、2001年第1四半期の韓国都市世帯の平均月給は、256万ウォン(2,000$)に達した。このようにして、脱北者家庭の平均所得は、韓国の都市家庭の所得のほぼ3分の1であり、特に貧富の差が余り大きくない韓国社会のかなり平等主義的な性格に注意を向ければ、巨大な格差である。アンケート中、脱北者家庭の82.9%が自分の収入に「強く不満」だと表明したことは驚くべきことではない。

 それにも拘らず、脱北者の物質的困難は、過大評価すべきでもない。周囲と比較した相対的貧困だが、決して絶対的なものではない。絶対的指標において、脱北者は、最も不運な者ですら、北よりも遥かに良く暮らしている。これは、北朝鮮基準でエリート層に入っていた者ですらそうである。平壌上層部出身の脱北者にしばしば与えられる「北の特権層出身であるあなたは、何故、南に渡ったのか?」という質問に対して、趙スングンは、「私が金日成の息子だったなら、実際、韓国に逃亡するか分からない。しかしながら、その水準未満の者について言えば、北朝鮮の相又は副相ですら、普通の韓国人よりも悪く暮らしている」と答えた。元北朝鮮人の主な問題は、絶対的なものではなく、相対的貧困、過大な期待と現実の間の格差、並びに心理性の困難 と関係している。

 脱北者が関係せざるを得ない主な心理的問題の1つは、北に残した親族に対する心配である。脱北者の家族の運命に関する確実な情報はないが、逃亡が重大な弾圧をもたらすことは疑いない。家族に対する心配と家族に対する罪の意識は、脱北者の大部分に特徴的である。「週刊東亜」誌の記者が書くところによれば、「家族の大部分に知らせずに秘密に北を離れた脱北者は、家族に対する罪の意識と韓国社会への順応問題のため、重大な心理的困難を経験している」。多くの者は、自分の近親者の逃亡を組織しようとし、若干の者はこれに成功している。韓国市民にとって中国入国が事実上自由となり、中朝国境を日々数百人の難民が横断している今、そのような逃亡の組織は、仲介者の助けにより全く現実的だが、少なからない金と努力が要求される。2000年12月、韓国警察は、脱北者の親族連れ出しを専門とする組織全体を摘発した。逃亡の組織に対して、これらの仲介者は、1千万ウォン(8千ドル )を要求した。この金で、彼らは、偽造パスポートその他の文書を製作し、並びに中国の役人に賄賂を渡した。グループは、11人の北朝鮮市民を満州から韓国に連れ出すことに成功し、責任は免除された。偽造文書の製造にも従事していた別の組織(脱北者用だけではなく、他の韓国への不法入国希望者用にも)が、2001年4月に警察により摘発された。別の類似グループも存在しているのは疑いない。需要があれば、供給もあるだろう。脱北者の言葉によれば、その3分の1以上が自分の家族を韓国に連れ出そうと試みており、北朝鮮人の中国からの不法運搬は、船で約5百万ウォン、飛行機で2〜3倍高くかかる。

 自分自身の生命に対する恐怖も、脱北者を放っておかない。1999年に行われた研究のデータによれば、その65%は、暗殺の犠牲となることを恐れている。実際、この噂は、かなり過大評価である公算が大きい。現在のところ、北朝鮮エージェントによる脱北者暗殺の1事例のみが確実に知られており、その上、この事例は、非常に特殊である。1997年2月、ソウルにおいて、1982年に越南した金正日の最初の妻の甥、李韓永が殺された。あらゆる点から判断して、この行為は、この少し前に平壌に戻ることを拒否し、韓国に逃亡した統治階級の別の脱北者、元朝鮮労働党中央委員会書記黄長Yの除去に向けられていた。何らかの理由により公表されなかった別の暗殺もあったことが排除できないが、何れにせよ、北朝鮮の暗殺者の銃弾に倒れる可能性は、大部分の脱北者にとって無視できるほどに小さい(悪意あるソウルの運転手が大きな脅威である。)。しかしながら、たとえ根拠がなく、不合理な恐怖であっても、存在しており、脱北者の生活に影響を与えない訳にはいかない。

 北朝鮮人は、言語問題も経験している。朝鮮語文語体の南北の書式間の違いそれ自体は、大きくないが、北朝鮮人は、英語の借用語の広い使用(しばしば、元来のラテン表記)と漢字表記の散発的な使用という2つの現代韓国語の実践にとって普通の事情に戸惑っている。特に、これは、英語の借用語にも、漢字表記にも非常に頻繁に出くわす特殊な文章とあらゆる技術文書に関係する。北では漢字の基礎が学校プログラムにも含まれているが、この科目は、極めて表面的に教えられ、実践において、北朝鮮人の圧倒的多数がハングル表記しか知らないため、漢字は、北朝鮮で使用されていない。英語の授業も、北朝鮮では、特に南と比較して最良には与えられていない。

 脱北者の子供達は、学校で少なからない問題を経験する。彼らと働いている韓国人学生のボランティアは、これに関して、「当初、彼ら(北朝鮮人の子供)は、授業の50%以下しか理解せず、テストの機構と教科書の内容は、彼らにとって馴染みがないため、最初の評価は、大きな失望を引き起こす。逃亡時、彼らが1年から3年の教育を逃し、同年代の者と授業を受けられず、年下の子供と一緒に勉強せざるを得ない事情も、困難を引き起こす」と語っている。1999年夏に行われた脱北者の子供のアンケート時、34%の生徒は、同級生との関係を「悪い」と評価している。

 しかしながら、主要な問題とは、心理的、正確に言うと、社会・心理的なものである。分かりきった理由により、脱北者は、韓国プレス代表 とのインタビューでは、この論文の著者との会見ほど開放的ではないが、一般的な光景は、公表された資料からも感じられる。教育と少なからない生活経験を有する者ですら、全くの異郷に来て、不可避的に当惑する。最初の困難は、見知らぬ伝統、奇妙な生活様式により引き起こされる。外界への慣れは、遅かれ早かれ 行われるが、同時に、別の違いが第一面に現れる。北朝鮮人は、韓国社会における関係のスタイルが多くの点で慣れ親しんだものと異なることを直ぐに見つける。韓国の左派ジャーナリストは、「資本主義に不慣れな北朝鮮人は、南の住民間の関係の個人的スタイルに驚かされる」と指摘している。実際、 著者は、韓国人が「自己中心的」、「打算的」、「冷たい」、重要なのは、「貧乏人と失敗者に尊大 」であり、根拠もなくもなく、大部分の脱北者が特に貧乏人で、失敗者と感じていることを、南に住んでいる北朝鮮人から再三聞かされた。恐らく、最も成功した脱北者の1人(大レストラン網の所有者)、チョン・ショルウ がこれについて語ったところによれば、「北は貧しく暮らしている。しかし、貧しいだけに、その人々は互いに思いやりがある。そこには、ここの無情はない・・・。ここには、金が全てを決定する社会がある」。 若干のインタビューは、プロパガンダ資料としての利用(勿論、若干編集されたもの)のために北で出版されそうな位に批判的である!

 最近、難民は、犯罪活動にますます活発に関与している。つまり、1996年、「現代」財閥設立者の遠戚、鄭スンヨンと彼女の2人の子供の越南が、韓国プレス上でセンセーションを引き起こした。彼らは、珍しい華麗さで迎えられたが、2000年夏、この経緯には、予期せぬ結末が現れた。鄭スンヨンの息子は、オートバイの再度の窃盗と未成年者の犯罪誘引で、彼女自身は、詐欺で起訴された。1999年初め現在、北朝鮮出身者により実行された66件の犯罪が記録された上に、法律違反の大部分は、過去十年間に南に来た者が実行した。1953〜1990年の414人の脱北者は、その韓国滞在の全期間に渡って、23件の犯罪を実行したが、1990〜1998年の308人の脱北者は、より短期間に、43件の犯罪を実行した。この統計は、紹介したように、1993年以降の脱北者への財政援助の急減とその社会構成の顕著な変化という互いに関係する2つの事情によって説明され得る。

 既に再三語ったように、脱北者は、統計関係において、微々たるグループである。しかしながら、南での彼らの同化の経験は、未来の朝鮮半島にとって格別に重要である。最近の事件から、いかなる結論を下すことができるか?予測の精度は自負できないが、それでも、若干の結論を下し、南北間の移民の比較的遠い運命の若干の予測を行うことにする。

 北の住民にとっての南の魅力は、長く維持される公算が大きい。南北間の生活水準における格差は、巨大で、1人当たりのGNPは、南で1万ドル、北で500ドルに等しい。朝鮮半島 情勢の展開の最も好ましいシナリオの下ですら、この格差の解消は、10年では済まない。生活水準における巨大な格差それ自体は、政治及び文化的要素に関係なく(かなり重要でもある)、北朝鮮人にとって韓国を格別に魅力的なものにしている。しかしながら、現在、難民の流れは、比較的少なく、年間数百人である。大量移住は、現在のところ、複数の事情が妨げている。第1に、今飢えた国民の中国逃亡にかなり寛大に接している北朝鮮当局は、従来通り、韓国への逃亡を重政治犯罪 として見ている。38度線は、綿密に警備され、脱北者の家族には、厳格な処罰が待っている。第2に、大韓民国当局は、自国のあらゆる公式宣言にも拘らず、最近、余り北朝鮮難民を受け入れようとはせず、事実上、国内進入を妨害している。第3に、既に何十年も、平壌は、国外情報、特に、韓国に関する情報へのアクセスを住民から奪いつつ、効果的な情報鎖国政策を行っている。その結果、北朝鮮住民の比較的小部分 だけが、南北間の生活水準の格差がいかに大きいかということについて、相応する理解を有している。

 近い将来、脱北者の流れは、増大する公算が大きい。厳しい経済及び財政危機のため、北朝鮮当局は、住民に対する統制を顕著に弱化せざるを得なかった。加えて、韓国の現状に関する情報は、北朝鮮に徐々に流布され続けている。他方、ソウル当局は、恐らく、とにかく韓国領土まで辿り着けた脱北者を引き渡そうとしないだろう。韓国に入った元北朝鮮市民の受け入れの直接拒否は、恐らく、韓国の公式国家神話の重要な構成部分、つまり、全朝鮮の合法政府の役割に対するソウルの要求との断絶を意味するはずである。加えて、そのような拒絶は、左翼民族主義から伝統的な反共主義までの全方面の韓国の社会組織側からの厳しい抵抗を引き起こすはずである。他方、一般脱北者へのあらゆる特典と手当の更なる削減すら予想される(その完全な廃止に至るまで)。

 近い将来、朝鮮情勢の急変が起こり得ることが排除できない。例えば、北朝鮮における重大な改革が、少なくとも当初、脱北者数の今後の増加をもたらすことは明らかである。現システムの破綻、恐らく(しかし、必ずというわけではない)、事後のドイツ式統一で終わり得る北朝鮮危機の先鋭化も排除できない。この案は、脱北者数の更なる急増を意味する。最後に、現在の「成長率」の保持の際ですら、毎年の脱北者数の増加は、数年後、南における「北朝鮮人共同体」が社会、経済及び政治生活の顕著な要素に変わる ことをもたらす。遠くない時期に、南における元北朝鮮人の数は、数万人に達する公算が大きい。

 あらゆる点から判断して、大部分の脱北者にとって、新しい生活スタイルに適応することは、簡単ではないだろう。問題となるのは、英語と漢字の無知、あらゆる種類の韓国設備の取り扱いの無知、南の条件下で要求される教育の欠如、特に、「現地」からの文化・心理的阻害であろう。事実上、このことは、元北朝鮮住民の圧倒的多数が南において、最も専門知識を要さない、従って、給料の悪い仕事しか当てにできないことを意味する。北朝鮮人の主要な競争上の利点(専門知識を有さない肉体労働について)は、勿論、最低限かつ大部分の韓国人にとって受け入れ難い給料で働くことの需要と用意の低水準である。この関係において、北朝鮮人は、南に大量に現れ始めれば、現時点において、多数の出稼ぎ労働者、つまり、中国、南アジア及び東南アジア諸国からの外国人労働者が属している「社会下層」を占める用意が完全にある。2000年末、韓国には、26万人以上のそのような労働者が存在した。見たところ、事実上、彼ら全員は、韓国下層の代表が外国人により遂行される「3D:Difficult、Dirty、Dangerous」(「きつい、汚い、危険」)仕事を極めて嫌っているため、必要な際、北朝鮮人移民と取って代わられ得る。

 しかしながら、今外国人労働者に受け入れられている「ゲームのルール」に北朝鮮人がどの程度同意するかは分からない。中国及び東南アジアからの「出稼ぎ労働者」は、韓国社会から隔離され、韓国滞在を一時的なものとして受け入れ、その主な目的は、重労働で大金を稼ぎ、数年後、韓国基準で慎ましい貯蓄が しばしば真の財産に変わる祖国に帰国することである。外国人労働者の今の「従順さ」、ストライキその他重大な紛争の不在 は、これらと、彼らの法的地位の極端な不安定さ(大部分の「出稼ぎ労働者」は、韓国に不法滞在している。)と関連している。彼らは、異国人かつ一時的なもので、 行くべきところを知っており、根拠もなくもなく、数年間の重労働後には帰国が待っていることを期待している。北朝鮮移民の立場は、全く異なるものとなるだろう・・・。

 ノーメンクラトゥーラ上層部、並びに一定部門のインテリゲンチヤの北朝鮮エリート代表は、別の状況に直面する公算が大きい。韓国における彼らのサービスに対する今の少なからない需要は、北朝鮮の事件の解釈者となり得ることと関連しており、並びに多くの場合、「北朝鮮エキゾチズム」への関心により左右される。北朝鮮上層部難民の南への大量流入の場合、彼らが相応しい場所を見つけるチャンスは、今よりも遥かに少なくなる公算が大きい。多くの北朝鮮の技師、教師、医師は、南への移民を欲し、それができたならば、皿洗い、 荷役及び靴磨きの特技に習熟せざるを得ない。しかしながら、北朝鮮テーマへの今の「需要向上」終結後も、多くの北朝鮮エリート代表には、その最良の教育と関係のため、新しい条件に上手く適応するチャンスがあるだろう。その最も成功した者は、今後も、一種の「買弁者」、つまり、南北の経済及び政治上層部間の協力を保障する仲介者及びコンサルタント(独立国家を代表していようが、いまいが関係なく )の役割を演じる公算が大きい。脱北者の経験が示しているように、両朝鮮社会間の文化及び社会・心理的違いは、そのような顧問と仲介の需要が長年維持される公算がある位に大きい。

 何れにせよ、事態のいかなる展開の下でも、「北朝鮮人共同体」は、次の数十年間、成長し、大韓民国の生活の重要な要素に不可避的に変わるだろう。

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最終更新日:2004/03/19

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